31(Thirty-one) Factory 北原 サエのブログ

文芸作品を創っています。

日本橋

 久々に日本橋に行ったら、高層ビル街に変っていたので驚いた。日本橋には、母を連れて買い物に行ったのが最後ではなかったか。

 当時、私は社長一人、社員数人の小さな会社で事務員をしていた。職場はマンションの一室で、私は事務の仕事の他に、部屋の清掃から細かい雑用まで何でもやっていた。「助かるよ」と、社長さんは私を気に入ってくださっていた。取引先からもらった高級な菓子などを、社長さんからよくいただいた。ある時、取引先からもらったらしい三越の商品券をいただいた。

 私は母を誘って三越に買い物に行った。いただいた商品券で、足が不自由になっていた母に、キャリーバッグと杖を買った。食堂で母にご馳走した。「きょうはいい日だった」と帰宅後、母は喜んでいた。

 間もなく、私は退職したので、社長さんに御礼を言いそびれてしまった。「ありがとうございます。お陰様で母に親孝行できました」心の中で、社長さんにあの日の礼を何度も言っている。

 当時、社長さんは六十代前半だった。いまでもお元気でいらっしゃるだろうか。あれから二十年の歳月が過ぎようとしている。

爆弾蝉

 アパートの外階段に、仰向けになって微動だにしない蝉がいた。

 落蝉か? 夏の終わりでもないのに? もう死んだの? 不可解だったが、その日はそのままにしておいた。

 翌日も蝉は同じ場所に仰向けになっていた。邪魔だから除けようと、蝉の翅を指で摘んだ瞬間だった。蝉は私に飛びかかるかと思う勢いで反応し、物凄い速さで飛び去って視界から消えた。

 生きていたんだ。調べると、蝉は仰向けになると自力で起きられないらしい。触った瞬間に爆発するように反応して驚かされる。爆弾蝉というそうだ。

 蝉は羽の黒い色も、もぞもぞ動く足もゴキブリに似ていて不気味、存在そのものがホラーだ。生きている蝉は怖くて触れないが、死んでいたから触れたのだ。爆弾蝉に驚いてよろけた瞬間、足を捻り、膝痛だった膝を痛めてしまった。

十二「冬の波」

 六本木プラザビルが解体される。七十年代の初め頃、よく通ったビルだ。「ニコラス」というピザレストランが入っていた。広々として高級感のある店だったが値段は手頃だったのではないか。当時付き合っていた大学生の彼とよく行った。私は小海老の入ったピザが好きで、決まってそれを頼んだ。

 一階と二階には「パブ・カーディナル」という、今でいうカフェバーのような、お茶もお酒も飲める店があり、若い人達で賑わっていた。

 「ナンパ」という言葉が日常茶飯に使われていた時代だった。街で出合ったばかりの外国人とパブ・カーディナルでお茶を飲んだ。夜、店で知り合った若い男の子達のグループと二階で同席した。その中の一人に誘われて車に乗った。無謀だった。

 デイトでよくニコラスに行った大学生の彼とは、私が大学二年の秋に別れた。私は立ち直れないほど深く傷ついた。

 別れて数か月経った冬の夜、街で偶然、彼に出会った。私達はパブ・カーディナルに行き、向かい合って座った。私は押し黙っていた。時々恨めしそうな眼で彼を見たかも知れない。

「俺を恨んでいるんだな」と彼は言った。私は返事をせず、彼の顔も見なかった。もう話すことはなかった。他人同士になっていた。

 パブ・カーディナル、そこは青春の切ない、苦い思い出の染みついた場所でもあった。

 砂浜に書いた文字を波が消してゆくように、時の流れに押し流されて変わってゆく街に、私一人が取り残されている。

「そんな眼で俺を見るな」と裏切った男は言った冬の酒場で

十一「ハンバーグの思い出」

 豆腐ハンバーグをつくった。挽肉、玉ねぎ、豆腐、卵を捏ねて焼いたが、食べるとパサパサしておいしくない。何かが違う。そうだ、食パンが切れていたので入れなかった。ふわふわの食感を出すには食パンを入れないと。

 子供の頃、木造平屋建ての昭和の家の台所にはガスオーブンがあった。母はそのオーブンで、よくハンバーグを焼いていた。私に野菜を食べさせたかったのだろう。玉ねぎの他に、細かく切った人参やピーマンが混ざったハンバーグ。細かいことを気にしない豪快な母らしく、ちぎった食パンの耳がそのまま入っていた。 

 中学生になった私は、そのオーブンでクッキーを焼いた。グループサウンズが全盛の時代だった。ファンだったバンドの為に手作りの下手くそなケーキを焼いて楽屋に差し入れた。

 十七歳になった私は、父の援助で家を出てアパートで一人暮らしをした。一年後、家に戻ると、母屋は取り壊され駐車場になっていた。母屋にあった台所もオーブンも、跡形もなく無くなっていた。

 あのオーブンで母はハンバーグの他に何か作っただろうか? 鳥も焼かなかったし、菓子も焼かなかった。よく食卓に出た、砂糖と洋酒で味付けして丸ごと焼いた焼き林檎、あれはオーブンで作っていたのだろうか?

 令和の台所で、私はハンバーグの材料を捏ねている。玉ねぎの他に野菜は入れないが、食パンは必ず入れる。テフロンのフライパンで焼くハンバーグには、母のつくったハンバーグのように、ちぎったパンの耳がそのまま入っている。

十「柿の木」

 庭のある昭和の古い木造の家が取り壊されて、ビルを建てるまでの間、駐車場になっていた。駐車場の隅には、庭にあった柿の木が一本残されていた。秋になると、たわわに実をつけた。近所の人が竿で柿の実を落として持ち去っていた。やがて、駐車場にビルが建つことになり、柿の木は切り倒されなくなった。

 

駐車場に一本在った柿の木の切り倒されて昭和終わった

九「アイスティー」

 幼い頃、隣の家によく遊びに行った。隣の家は四人家族だった。両親と男の子と女の子の兄弟がいた。下の女の子は、私より五歳くらい年上だった。上のお兄さんは、私ともっと年が離れていたが、仲良くしてもらった。物静かでやさしい少年だった。

 お母さまは色白のほっそりした品のよい方で、小学校に入学する前から、私を可愛がってくださった。

 隣の家は木造の二階屋だった。居間には皮のソファがあり、黒いピアノが置かれていた。

 夏に行くと、アイスティーがあった。お母さまが紅茶の葉を煮出して作り置きしていたのだろう。子供だった私もご馳走になった。琥珀色の少し濁ったアイスティーにはレモンが入っていた。

 私が八歳の頃、隣の一家は、都心から離れた街に引っ越した。引っ越した後も、私が十二歳の頃までは、私の家と交流が続いていた。

 小学校の夏休みの宿題で、昆虫の標本を作ったことがあった。カナブンの背中に虫ピンを刺して標本にしようとした。カナブンは死なないで足を動かしているので困った。どうしたらよいか、お兄さんに電話で相談した。お兄さんは高校生か大学生になっていたと思う。

 小学校を卒業した私は、私立中学に進学した。あれは中学一年の夏休みではなかったか? 泊まりがけで、一家の暮らす家に一人で遊びに行った。

 二階建ての一軒家だった。畳の居間で家族と一緒にトランプをした。チャーハンを食べた。居間には大きなブラウン管テレビがあり、NHKの番組を見た。「夢であいましょう」ではなかったか? その晩は妹さんと布団を並べて寝た。妹さんは高校生になっていたと思う。

 翌日、お母さまが私を都心の駅まで送ってくださった。新宿のデパートのアクセサリー売場で、私に赤いモザイクブローチを買ってくださった。食堂でお昼をご馳走になった。冷やし中華を食べたことを鮮明に覚えている。

 それが最後の記憶になった。その後、一家とは疎遠になり、まったく音信がなくなってしまった。

 お母さまは身体が弱かったようだ。お元気で年を重ねられただろうか。 

 夏が来ると、昭和三十年代の木造の家のソファのあった居間、レモンの香りがした琥珀色のアイスティーを思い出す。

八「ワンピース」

 ハチ公前広場のある渋谷駅前に、SUZUYAというブティックがあった。十代だった私は、放課後や休みの日に、級友たちとよく立ち寄った。店内には、若い女の子の好きそうな服や小物が所狭しと並んでいた。何を買ったという記憶もないので、見るだけで楽しかったのかも知れない。

 でも、そのうち私は、見るだけでは飽き足りなくなった。おしゃれがしたい盛りの年頃だった。売り場にあった半袖のニットのワンピースが欲しくてたまらなくなった。値段は六千円くらいだったが、まだアルバイトをして稼ぐこともできない私には手が届かなかった。

「ワンピースが欲しい。買って」と母にねだった。

 母は夕方から料理屋に働きに出て暮らしを立てていた。家は貧しかった。母にはその服を買う余裕がなかった。

 服を買って欲しいと、しつこくねだると、「学生は勉強すればいいの」と、母に叱責された。 

 喉から手が出るほど欲しかった服を手にすることができなかった。惨めだった。母はほんとうは、あの服を私に買ってやりたかったかも知れない。

 令和のいまも、渋谷駅の前を通ると、(ここにSUZUYAがあったな)と思う。欲しかった半袖のニットのワンピースが甦る。  

 洋服の買えない暮らし「学生は勉強すればいいの」と母は        

七「ぶらんこ」

 出会って三か月でプロポーズされた彼と、午後の公園で並んでぶらんこを漕いだ。

 プロポーズは承諾したが、その先の未来に何があるのか予測がつかなかった。不確かな未来を暗示しているかのように、揺れるぶらんこから灰白色の空が見えた。

 

 彼とは価値観が合わなかった。数か月後に別れた。彼は私と別れて間もなく、職場の女性と結婚し、子供ができたと知人から聞いた。

 よかったと思った。私を愛していた、いい人だったのに、別れを言い出して無理やり別れたのは私の方だった。彼を傷つけたと思っていた。

 昭和から平成、令和へと月日は流れるように過ぎた。昭和のあの日、別れた彼とぶらんこを漕いだ公園へは、それから何度か行った。ぶらんこに乗ることはなかったが、あの日のことを思い出した。数年おきにその公園の前を通る度、ぶらんこがまだあることを確認したのではなかったか? 

 

 令和のある日、数年ぶりにその公園を訪れると、ぶらんこは撤去されてなかった。ぶらんこがあった場所には金属製のベンチが二つ置かれていた。時が消し去っていた。

何十年も経ったのだ、当然だろう。そう思おうとしたが……。

 ぶらんこも、並んでぶらんこを漕いだ若い二人も、揺れるぶらんこから見た灰白色の空も跡形もなく消し去ってしまった、時の非情さに少なからぬショックを受けた。ぶらんこがあった場所に、私はしばらく佇んだ。

 

 

 

 

 

六「郷愁の銀座」

 数寄屋橋不二家の並びに鰻屋があり、母と通った。銀座の街に、まだ路面電車が走っていた頃だ。働いて家計を支えていた母にとっても、それは月一度の贅沢だったのだろう。鰻丼に肝吸い、キャベツの塩揉みがついていた。鰻と肝吸いを祖母の土産に買って帰った。

 中学生になると、母と銀座に行くことは少なくなった。そして気がつくと、あの鰻屋はなくなっていたのだが。青い空にアドバルーン路面電車が走っていた、郷愁の銀座の街に、あの鰻屋はいまもある。

  五「クリスマスの思い出」

 子供の頃、クリスマスにツリーを飾った。卓袱台のある畳の居間に、高さ五十センチくらいの綿の雪を被った緑色のツリーがあった。ツリーには、三角屋根の小さな家の形をした飾りがいくつもついていた。それぞれの家には、赤や緑のセロファンで作ったような窓があった。

 北欧の街はこんななのかな? 小さな飾りの家々を見て、行ったことのない北欧の街に思いを馳せた。

 クリスマスにケーキを食べた記憶はないが、朝起きると、部屋に吊り下げた靴下の中に、キャンディなどの菓子が入っていた。母が仕込んだものに違いなかった。幼い私は「サンタからのプレゼント」だと思っただろうか?

 中学生になってからは、部屋にツリーを飾った記憶がない。あのツリーはいつの間にか家からなくなってしまった。母は夕方から割烹料理屋に働きに行っていた。家は貧しかった。

 私が二十代の頃、クリスマスになると、母は仕事帰りに、安売りされている売れ残りのクリスマスケーキを買って来た。私はそれを食べた。

 ある年のクリスマスの夜、仕事帰りに、母は私にプレゼントを買って来た。ゆとりのない財布から買ったことがわかる赤い色のマフラー。侘しくて嫌だった。

 

 時は流れて、平成のクリスマスの夜。コンビニに行くと、二個ずつパックに入ったクリスマスケーキが棚にあった。私はそれを買って帰った。いまはもう働いていない年老いた母のために。

  四「昭和の食卓」

 昭和の食卓にあったもの。味の素、パンケース、バターケース。プラスチックの青い蓋の四角いパンケースに食パンが入っていた。バターも四角いのをそのままプラスチックのバタ―ケースに入れていた。オーブントースターなどなく、トースターの原型の二枚ずつ焼くトースターで焼いて食べたのだろう。

 現代の街にあるような様々な種類のパンを売っている店もなかった。母に連れられて外出した時、デパートの食品売り場で、バターが入っているような狐色の小さなパンをひとつ買ってもらったことを覚えている。

 小学校の給食にはコッペパンが出た。小さなジャムがついていたような。給食にはアルミ製の椀に入った脱脂粉乳が必ずついていた。脱脂粉乳はまずくて嫌いだった。いまは貴重になっている鯨肉もよく給食に出た。

 街にはコンビニもなく、マクドナルドもなかった時代である。レジ袋も普及していなくて、買い物かごが活躍していた。「お買い物に行ってきますね」そう言って、祖母はよくビニール編みのような買い物かごを下げて出かけた。

 夕方になると、肉屋の店先から、カツとコロッケを揚げる匂いが漂ってきた。経木に包まれた揚げたてのカツとコロッケを買って帰り、家族の夕食にした。

 スーパーではない食品を売る小さな店があって、卵をよく買いに行った。ビニールパックに入っていないばら売りの卵だった。新聞紙の袋のようなもので渡された。

 揚げたてのカツとコロッケを売る小さな肉屋は、平成まで営業を続けていたが、時代の流れに居酒屋に代わり、遂には肉屋の入っていたビル自体が取り壊されてしまった。

 夕刻に幾度となく肉屋に買いに行った、夕食に家族で食べた、あの揚げたてのカツとコロッケの味はもう思い出の中にしかない。

 

  三「昭和の暮らし」

 昭和の畳の居間には卓袱台があって、箱型のモノクロテレビがあった。テレビの傍にはいつも、見たい番組を丸で囲った新聞の番組表があった。

 明治生まれの祖母は、テレビで相撲を見るのが好きだった。ひいきの力士が勝つと、パチパチと手を叩いて喜んでいた。

 家電が普及しはじめた頃で、台所にはまだ木の冷蔵庫があった。調理はガスコンロだけだった。電子レンジの代わりに大きな蒸し器があった。水を少量入れた鍋に冷やご飯を茶碗ごと入れ、蓋をして火にかけ、温めて食べた。

 ガスで沸かす風呂窯の付いた風呂、木製タンクが頭上にある和式トイレがあった。

 夏は扇風機で涼み、冬は火鉢やガスストーブで暖を取った。子供だった私は家事をしなかったので実感がないが、脱水機の付いた洗濯機、電気冷蔵庫、電気炊飯器など、家電が続々増えて昭和の暮らしは便利になっていったのだろう。

 家には風呂もあったが、母に連れられて夕暮れ前、まだ明るい時間に銭湯へ行った。夕方には、豆腐を売る自転車がラッパを鳴らして裏通りにもやって来た。